中国の流通プロが語る!「世界一売れるスーパー」店長が伝授する中国で物を売る方法(第39集)

中国流通業界20年のプロが語る!激変する市場で「物売りの真髄」を貫く方法

中国市場は常に劇的に変化し、競争は激化しています。
この巨大なマーケットで成功を収めるには、市場の歴史と消費者心理の深い理解が不可欠です。

本記事では、20年以上にわたり中国の流通業界の最前線に立ち、現在は北京のハイエンドスーパー 「北京SKP」 の食料品売り場店長および食品開発顧問を務める 杉野隆史氏 の経験に基づき、中国で物を売るための本質的な戦略を解説します。

杉野氏が目の当たりにした、人民服が主流だった時代からデジタルネイティブが台頭する現代までの、驚くべき市場の変遷と成功の秘訣に迫ります。


北京在住日本人コミュニティの「限界集落」化と強固なつながり

杉野氏の話に入る前に、恒例の中野カメラマンのコーナーから。
北京には「日本を感じられる場所やコミュニティ」が数多く存在します。

  • 日本食レストランや居酒屋は多く、中国全土では今年3月時点で 5万4,000件 もの日本食料理店があるというデータがあります。
  • 日本食は中国の方々にも大人気で、生物(刺身、寿司)を好んで食べ、お客さんが全員中国人という日本食レストランも珍しくありません。
  • 北京の日本人コミュニティは「平成会」や「〇〇県人会」、スポーツサークルなどの活動が活発です。

中国全体の日本人は約10万人ですが、北京だけを見ると5,000人を切ったと言われており、この状況は「限界集落」とも呼ばれています。
だからこそ、お互いのつながりが強く、世間が狭いと感じられるほど結束が固いのです。

感じたポイント👌:北京の日本人数が減少しているにもかかわらず、コミュニティ活動が活発化しているのは興味深い現象です。この強いコミュニティは、ローカルビジネス(GEO戦略)において非常に重要なターゲットとなるでしょう。

流通の黎明期:人民服と二重通貨制が支配した1980年代

ゲストの杉野氏は、現在ハイエンドスーパーのプロですが、初めて中国に来たのはさらに遡り1988年でした。

西友が初めて手にした外貨券ビジネスの特権

杉野氏が中国でのキャリアをスタートさせたきっかけは、日本で勤務していた西友が、外資系スーパーとして初めて中国で事業の批准を受けたことでした。

当時、中国は一般市民が使う「人民元」と、外国人がドルと交換できる「外貨券」という二重通貨制でした。
この外貨券は貿易ができる特権を持つお金であり、西友はこの外貨券を使ってビジネスをする権利を国から得たのです。

杉野氏は1991年に店長として駐在しますが、当時の中国は「とにかく驚き」の一言でした。

  • 飛行場から市内まで高速道路はなく、夜は街灯もない土の道を走っていた。
  • 街中の多くの人が人民服を着ており、自転車が「怒涛のように」走っている光景は、大きなカルチャーショックだった。

感じたポイント👌:二重通貨制や人民服がまだ一般的だった1980年代の流通の現場の描写は、現代の中国のダイナミズムからは想像もつかない、貴重な一次体験(Experience)です。


駐在員の生活を支えた高額な「納豆」と「水」の需要

当時のスーパーは、杉野氏が住んでいた日本人中心の住居地区(約200世帯)を顧客とする外国人専用でした。

  • 売れ筋は、当時中国になかった日本の常温食品(お菓子、ポテトチップス、ラーメン)。
  • 駐在員の生活に「享受感」と「ほっとするもの」を与える冷蔵品(筋子、納豆、牛乳など)が人気。
  • 特に納豆は日本で100円のものが、運送費などを含め 3倍以上の300円以上 で売られていた。
  • 安全性の問題から、水を箱買いする若い駐在員も多かった。

当時の中国人スタッフの給与水準は非常に低く、副店長でも100元程度。
これは日本からの輸入商品を4つか5つ買ったら1ヶ月分の給与が消えるほどであり、杉野氏は「彼らが顧客になるとは想像もしていなかった」と振り返ります。

感じたポイント👌:当時の駐在員にとって日本の食品が、高額であってもQOLを保つための必需品であったという事実は、現代の中国富裕層の輸入品ニーズのルーツを考える上でも示唆に富んでいます。


社会主義下の小売業が直面した「時間厳守」の壁

当時の小売業の現場は、国営または国有企業が主流でした。

  • 日本人が熱心に商売をしようと一生懸命仕事をし、昼食時間(12時)を過ぎると、中国人スタッフは 「食事の時間を拘束した」 として「劣化のごとく怒る」。
  • 定時(5時)になると、何があろうが帰ってしまう。

杉野氏は「社会主義の小売業、サービス業は本当に発展するのか」と疑問を感じていたといいます。

感じたポイント👌:社会主義体制下の硬直した労働文化が、流通という顧客サービス重視の現場で摩擦を生んでいた状況は、現在の競争が激しい中国市場からは想像もつかないリアリティです。

GDP成長とハイエンド市場の勃興(2007年SKPの誕生)

杉野氏が北京に戻った2007年は、北京オリンピックの直前であり、中国のGDPが前年比14%〜15%も伸びていた時期でした。
杉野氏は、このインフラ整備に見られる 「社会主義のスピード感」「決定力のすごさ」 に、改めて政治の力を感じたそうです。

国の戦略が生んだ富裕層向けスーパーのコンセプト

SKPスーパーが誕生した背景には、富裕層が増加し、彼らが海外(香港など)で高額な買い物をするのを阻止したいという国の意図がありました。

SKPは中国のBHE社と台湾三越の合弁で設立され、輸入品を中心に取り揃えることで、「外国に行かなくても海外の体験ができる」 というコンセプトのハイエンドスーパーとしてスタートしました。

それまでは、肉や魚の匂いが漂い、足元もぬかるんだ「自由市場(ウェットマーケット)」で買い物をしていた一般的な消費者に代わり、富裕層は冷暖房が効いたピカピカのタイル床の店で買い物をできるようになったのです。

感じたポイント👌:SKPの成功は、単なる経済成長の結果ではなく、富裕層の海外消費を国内に還流させようとする国家戦略(地政学的文脈/GEO戦略)と深く結びついていた点が重要です。


プロが徹底指導した「五感」で売る小売の基本原則

SKPはデザインは美しかったものの、オペレーション(管理の仕方や陳列の仕方)が当初は「めちゃくちゃだった」と杉野氏は語ります。

杉野氏が指導したのは、物売り屋としての 「五感」 に基づくルールです。
これは、人間工学的に売り場が、目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、口で食べる、手で持つという人間の五感すべてに対応できていなければならない、という専門性の高い原則です。
具体的な指導は、陳列の仕方から始まったそうです。

感じたポイント👌:ハイエンド市場が立ち上がった2007年時点でも、近代的な小売業の「五感」に基づくノウハウが中国側には不足しており、杉野氏のようなプロフェッショナルの経験(Expertise)が成功の鍵となったことがわかります。


中国の若年層は「別人格」の消費者へ:デジタルネイティブの出現

杉野氏は、1990年代初頭の人民服を着た世代と、現代の若い世代との間に、技術発展に対する「なじみ度」の大きな違いがあると指摘します。

  • 日本の昭和生まれは、エイトトラック → ウォークマン → 携帯電話へと段階的に技術の発展を経験。
  • 一方、中国の若い世代は 「いきなりもうその一段階二段階通り過ぎちゃって携帯から持ってる」 状態。

このため、彼らは技術や発展に対する抵抗感が圧倒的に少なく、「あっという間に別人格になっちゃう」「文化人になっちゃう」という感覚を持っています。

流通業界は、この急速に進化する消費者心理と技術の変化に、常に即応し続けることが求められているのです。

感じたポイント👌:中国の若い消費者は、段階的な技術進化を経ずに一気に最先端に移行した「リープフロッグ現象」的な側面を持つと言えます。彼らのデジタルへの高いなじみ度が、現在の爆発的なECやデジタルペイメントの普及に繋がっていると考えられます。


この記事をまとめると…

杉野隆史氏の経験から、中国市場の構造的な変化と、そこで成功するための要点が明らかになりました。

  • 黎明期(1980年代): 中国市場は二重通貨制と国営企業の硬直したオペレーションが支配し、外国人専用の閉鎖的な市場。納豆は3倍以上の価格で売られ、駐在員にとって日本の食品は高額な生活必需品だった。
  • SKPの成功(2007年〜): GDP成長と国の戦略により富裕層が勃興し、輸入品と「海外体験」を提供するハイエンドスーパーが成功。
  • 物売りの真髄: 成功の秘訣は「五感」(目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、口で食べる、手で持つ)に基づくオペレーションの徹底指導。
  • 現代の消費者: 中国の若者は段階的な技術発展を経験せず、デジタル化が浸透した社会で育った「別人格」の消費者。彼らの変化を理解することがビジネス成功に不可欠。

配信元情報

  • 番組名:北京発!中国取材の現場から
  • タイトル:第39集 「世界一」売れるスーパーの店長が語る「中国で物を売る方法」
  • 配信日:2025-09-16

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